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授業で、「泣く」ことについて、本当に悲しいから泣いているのだろうか、泣くことが悲しみを表すことを知っているから泣くのではないだろうか、というようなことをふいにおっしゃって、食道にひっかかった骨が胃に落ちたようにすとんと納得した。

私は泣き虫だったけれど、悲しくても泣かない気がしていて、それは自分が冷たい人だからだ、と微かに思っていた。そうではなくて、赤ちゃんのときは、言葉を知らないから何かを伝えたくて「泣く」、それと一緒で、言葉にできない思いの現れなんだ。だから嬉しくても悲しくても悔しくても怒っても泣くし、強いて言うなら感極まって泣くとでも言うこの状態が、自然なのかも。
悲しくて泣くのは嘘泣きなのかもしれません。私は悲しくて泣いたことより腹が立って泣くことが多かったように思うし、たぶん人見知りだからだな。
私は泣いたら許されると思ってるの、という言い方をされて、少なくとも私はそう思って泣いたことはなかったから、嘘泣きする奴らが存在するせいだ、と思って「泣く」という行為が大嫌いになっていた。泣きたいときに泣くのは本当に泣いてるわけじゃないんだ。

なるほどそれで数学の問題が解けないと泣きそうになるのか。

1人の時に泣くのは、話さないからじゃないだろうか。独り言を言うか日記でも書けば、泣かないで済むかもしれない。
もしかして泣き虫な人って話下手な傾向があるんじゃ。

人は、表現できない感情を涙に変えるんだ。表現しようとしないから動物は泣かないんだ、もしかすると。

長年の悩みが、氷解した。ずっと続いた夜が明けたみたいな気持ち。
今後は巷にあふれる「泣きました!」に今までほどの嫌悪を感じずに済みそうです。彼らは、成長の過程で知った「感動系映画や小説等を見ると泣く」という習慣に捕らわれてるだけなんだ、きっと。



後でパソコンからなおします




葉桜は、桜と葉が混在した状態だと思っていたんだけど、葉になった桜を指すらしい。