日記について

 人の日記って面白い。個人的なことが書いてあるのが一番面白いと思うけれど、見バレ防止の抽象的な日記でも十分楽しめる。これは、その人の成長を明らかに見ることが出来る(成長する前のほうが面白いことも多い)からなのだと思う。一連の流れとして眺めて気づくことがある。

 人と比較して初めて自分が見えるけれど、改めて私はなんてくだらない人間なんだろうと思った。日記のごく一部を読んで反感を持ち、これは充実した人生を送ってきた人の意見だから(空虚な私は)傷つくだろうなと知りながら、傷つきながら、最後まで読んでしまう。そうして嫉妬むき出しの評論家からしがないファンへジョブチェンジしてしまうのであった。底辺から見ればどんなに充実していて、楽しそうで、羨ましい限りな毎日を送っていても不満や不安があったりする。ただ、悩みの次元は確かに違う。私が学校で話す友達がいないことを悩んでいる頃、彼らは親友の人数が少ないあるいは質が低いことを悩み、私が学校を卒業できないかもしれないと悩んでいる頃、彼らは就職できるかどうかを悩んでいるのだ。もっと言えば、人生について考えることは必要最低限の生活を営む人に与えられた行為であって、例えば明日の食物を確保するのに必死な人はそんなことを考える余裕はないはず。だから私は、必ずしもいわゆる恵まれた環境にいることが100%良いことだとは言い切れないと思う。実は何も考えないことのほうが自然なんじゃないかな。腹が減ったから食べる、そのために食料を得る、疲れたから寝る、そのほうが動物にふさわしいね。動物が何を考えているかなんて、私には知る由もないのだけれど。

 ところで、今日は何だか不運な日だった。新しく買ったヘッドフォンはイマイチだし、今後に大きな影響を与える決断の締切間近だし、何より依然買ったキーボードの端子にささるヘッドフォンがうちには一つもなかった! どうやら特別な何かが必要ならしい! 

 この文章は昨日書いたサイトの影響を多大に受けている。しかし、「まなぶ」という言葉は、「まねぶ」から来ており、つまり人の真似をすることは何ら間違っていない。問題なのは、それをオリジナルだと主張することだ。模倣はオリジナルではない。自分が良いと思ったことを真似し、悪いと思ったことは極力避ける、それを実行するだけで、少なくとも自分の理想には近づけるはずだ。こんな簡単なことに気づくのに20年もかかってしまった。私はパクリを恐れすぎていたのだ。もちろんこの方法ではある程度までしか伸びないことだけは忘れないように。

 もう一つ。私はあまりにも怠惰な生活を送りすぎている。もう少しだけでも成長するためにやはり目標を立てようと思う。思うだけなら簡単なんだけどな。

 とにかく闇雲に色んな方法を試してみなくちゃ自分には何がピッタリかなんてわかりっこないんだから。