無題

 友達が今年中学校を卒業する。その子は、私とは住む世界が違う人間で、端的にいうとリア充。中学1年のときに片思いして大騒ぎしていた男の子と付き合って、そのまま未だに関係が続いている稀有な存在で、たぶん学校でも人気者なんじゃないかな。「卒業式絶対泣く」としきりに言っていて、実際彼女は泣くだろうな。
 はて、私は中学校卒業の時に何を思っていただろうか。全然思い出せない。日記書いてたかなと見直してみても中学時代のものはなかった。改めて思う。記録することはとても大切なことだ。みんなそのために写真を撮るんだ。私も写真を撮ろう。いつもこのことは後で文章に残そうと思っているが、それじゃダメだ。めんどくさくなって結局やらないことが多い。
 文章は、そのとき何を考えていたかを残すにはピッタリだが、事実を伝えるには回りくどすぎる。他人に相手が知らないことを正確に伝えることはたぶん不可能だ。しかし、これからは出来るだけ、考えたことや起こったことを正確に伝えられるように訓練しよう。


 過去の日記を読み直してたら、恥ずかしいポエムもどきが出てきた! ほとんどが気持ち悪い自己嫌悪だけど、たまに良いことが書いてある。「自己否定と向上心は違う」というのを見つけた。なるほど。しかし、げんふうけいさんは「自己を無理に肯定すると向上しない」と仰っている。はたしてこれは矛盾しているのだろうか。少し考えればわかると思うが、両立できる。つまり、肯定も否定もしないで、ありのままを受け止められるよう努力すべし、ということだ。当時の私は、自分のことを認めることが出来なかったんだと思う。個性がうんぬんアイデンティティがうんぬんと盛んに書いているのは、間違いなく誰かに認めてほしかったからだ。その誰かってのは大概自分なんだろう。
 成長したんだなあ、と実感。たしかに今は個性的だとか変わり者だと思われたいとは感じない。私の考え方が変わってると思われても構わないとは思うけれど。この二つは似てるようで全然違うから、間違えないように気を付けて。
 にわかにげんふうけいさんが何を言いたいのかわかった。たしかに昔の私は無理に自分を肯定しようとしてた、のが日記を読むと歴然としてる。わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない、の意味も分かった。過去の私に拍手を送りたい。気持ち悪いのは重々承知の上で、将来役に立つかもと残しておいたものが、今こうして私の役に立っている。

 渦中にいるときは辛くて読み返せそうにないことも少し離れてみると客観的に考えることが出来る。そのときのために、記憶力が悪い人は記録しなければならないのだ。