就職支援のカウンセラーさんと話す中で、なぜアニメーターになろうと思ったのかと聞かれ、「絵が描けるなら大丈夫と言われて、なるほどと思って絵を描こうと思った」という話をした。その言葉が、とても心に残っていたけど、今までいつ誰に言われたのだったかぼんやりとしか思い出せなくて、なぜ心に残ってたのかもわからなかった。その経緯を急激に思い出した。

 私が通っていた大学は今、獣医学部の件で注目を集めていて、それについての会見(むしろ新学部の宣伝)がテレビで流れた。そこで発言する副学長の人を見た瞬間、記憶が蘇った。そうだ、この人に言われたんだ、と思い出した。

 私が入った学科では、研究紹介とレポートや発表等の練習を兼ねた授業が最初に行われることになっていた。それは私にとっては難易度が非常に高いもので、入学当初の慣れない環境で出来るはずがなかった。
 たしか私の最初の担当の先生だったんだと思う。はじめの授業は、冊子を作るから、そのための自己紹介の紙を書く、という課題だった。ランチメイトの、先生にボロクソ言われて辛くて泣いてしまったという話を聞いてしまったこともあり(関係ないかもしれないけれど)、ただでさえ無理そうだったのが、もう不可能だという思いになってしまった。全然出来なくて、たぶん泣いてしまって、「作文や自己紹介が苦手で出来ない」と言った私に、先生は色んな話を聞かせてくれた。同じ歳くらいの娘がいることとか、自分もそういうのが苦手なこととか。その流れで、たしか趣味を聞かれて、絵を描くのが好きだと言ったら(絵が好きだと言い切れた気がしないから美術部だったと言ったのかも)「ああ絵が描けるなら大丈夫だね」という内容のことを言われたんだった。「事前テストの結果も見てるけど、テストの点数は良かったし全然ダメってわけじゃないと思う。インプットはできるけど、アウトプットが苦手なんだね。でも、絵が描けるなら、全く自己表現が出来ないわけじゃないから、大丈夫」と、たしかこんな感じだった。
 その先生は、とてもとても良い人で、私がもう全然大学に行かなくなって進路に悩んでいた時、教学センターの人に先生が心配していると教えてもらった。先生と話したい気持ちもあったけど、勇気がなくて行けなかった。転学部しようか迷っていたけれど気持ちが落ち込んでいて挑戦出来そうになくて、結局試験も受けずに元の学科でもうちょっと頑張ってみようと思った。でもやっぱり行けなかった。それで、考えて、やめてしまった。

 教学センターの人には、壁は越えなくてもいいんだと言ってもらったり、自分も学芸員を取ろうと勉強してると話してくれたり、天文台の人には描いたキャラクターを気に入ってもらえたりと、結構色々お世話になっていたんだと思い出した。話す方の英語の授業も行けなかったんだったなあ。でも、もう一つの英語の授業のおかげで英語の面白さに気づいた。


 先生は当時、同じ部屋にいた別の先生に、なんだったか聞き取れなかったけど、将来何か偉い人になるもんね、みたいなことを言われていて、本人はいやいやそんなんじゃないよ、と返していた。ああこの人が学部長?になるのは素晴らしいことだ、と思ったものだけど、副学長になったんだなあ。表に立つの苦手だと言っていたし、実際あまり得意そうには見えないのに、注目を集めるのがわかっている会見でコメントしたり、とてもすごい。尊敬しています。


 やっぱり記録は残さなきゃいけないね。こんなに親切にしてもらったことを忘れてたんだからね。過去の日記を読み返ししてみると、ビックリするほど、前向きに色んなことにがんばっていたことがわかった。全部忘れてた。私は何も頑張れないしょうもなくてくだらない人間だと思い込んでいた。一番の過ちだと思っていたバレーもハイキューに繋がったわけで、後悔する必要はないはず。これからのことを考えないと。難しく考えない。でも病院は行かないといけないだろうな。発達障害の二次障害だと思うんだよな。
 しばらく日記も書いていなかったけど、また書こうと思った。


 生きている意味について考えたこと。生き物が生きる意味は、子孫を残すことだと思っていた。しかし実は全く逆で、生きていたもの、生きよう、子孫を残そうという気持ち?が強いものが今存在してるということなのではないか。つまり、生き残ろうとしない生き物は滅び、そうでないものが残った結果、子孫を残すことが重要になったんじゃないか? あれ、これ一緒かな?